大井町の歴史

大井町の歴史 -19「伊藤博文の恩賜館とはどの様なものだったのか-②」

表題の通り、大井町創成期の立役者であった伊藤博文が創った「恩賜館」を追いかけています。まずは大井町に「恩賜→天皇からもらったもの」である家が建立されるまでの経緯を整理してみます。

1873年5月→旧江戸城西ノ丸御殿火災により焼失、明治天皇は紀州徳川家江戸屋敷を仮皇居と定められる。

1881年10月→「赤坂仮皇居御会食所」(現 明治記念館本館)が竣工。以降、明治22年(1889)の明治宮殿竣功までの間、三大節賜宴、外国皇族との御会食を含め64回の御饗宴が開かれる。

1888年6月→大日本帝国憲法草案審議 (於:赤坂仮皇居御会食所)。

1907年1月→明治天皇は、憲法制定に功績のあった枢密院議長伊藤博文に赤坂仮皇居御会食所を下賜。

1908年2月→東京府荏原郡大井村の伊藤公邸へ移築竣功、「恩賜館」と命名。移築費として2万1千円(現在貨幣価値約8000万円)が下賜される。同時に伊藤博文と長男の別邸も完成する。

という流れです。つまり明治天皇は自分の住まい兼仕事場を帝国憲法制定に功績のあった伊藤博文に与えたということなんですね。当初、伊藤博文は金沢文庫の別邸に移転させようと思い、土地を取得し青図も描いていましたが、結局大井3丁目周辺に土地を買い求めました。

1908年2月11日に開催された恩賜館の開館式には、各元老大臣を始めとして、民間の有力者、外人等含めて1000名あまりの人々が招待され、伊藤博文はビール箱の上に立って明治憲法発布20周年の演説を行ったとされています。翌1909年に伊藤はハルビン駅で安重根に狙撃され逝去してしまうので、大井町でのこの瞬間は彼の生涯でも大きな出来事であったと思います。

やがて恩賜館は、明治神宮外苑造成に際して遺族から明治神宮奉賛会に奉献され、1918年に信濃町に再移築されました。今では明治記念館として主に結婚式場として使用されています。

また残ったもう一方の大井別邸は、旧米沢藩主の上杉伯爵東京邸と鉄道官舎など複数の敷地に分割され、1998年に大規模マンションへ姿を変えるまではその姿を留めていました。

ちなみに大井別邸の玄関や大広間や離れ座敷は、萩に移築されて残っています。

でも当時の事を考えると、天皇の住まいが街にやってくるのでしょうから、劇団四季シアターができる以上のインパクトがあったでしょうね。

次回は実際の建物や配置はどのようなものだったのか追いかけていきます。