前段の知識として
飛鳥時代(ヤマト)から奈良時代(日本)に変貌を遂げていった日本は国策として道路整備をはじめました。それは中央と地方諸国を結んだ7本の幹線道路「東海道・東山道(とうさんどう)・北陸道・山陰道・山陽道・南海道・西海道(さいかいどう)」とされました。その基本コンセプトは幅員は、拡幅12mと広幅員で見通しの良い2点を結んで直線的に敷設され、最短距離をとるために多少の勾配は考慮せずとされました。
道の幅12mといえば現在の国道1号の片側車線幅より1/3くらい狭いくらいです。かなりの輸送量、つまり軍事がメインであったことだろうと思います。当時の東海道は都内だけを抜粋すると沼部→洗足池→大井→居木橋→三田→日比谷入江→大手町→浅草橋→墨田→四ツ木→立石→小岩→堀切→青戸→金町というルートであったようです。ところが沼部から大井までのルートは、沼部の現「桜坂」(福山雅治の楽曲としても有名)が当時は急峻過ぎたので、沼辺から多摩川沿いに池上本門寺前→大井というサブルートもあったようです。
さてさて古代の大井駅はどこにあったのかといいますと、現在の大井4丁目、つまり池上通りと国道15号戦の間であったと考えられています。品川の歴史シリーズ「下の道名編 」 品川区教育委員会編)による とこのあたりは公共物が江戸時代大井村の行政的中心地で、お触れや高札が掲げられ、札場と呼ばれていました。また光福寺(782年開創)など「古い」公共物も多く、律令時代の大井駅が所在したと捉えられているのです。
大井町から沼部(東急多摩川線)までの実査をしてみた
とはいえ歩いてみないとわからない
道の痕跡は度重なる都市計画により年々消されていきます。ところがかつての道標=同祖神はそのまま設置され続ける事が多いです。多いのですが、それは小さなものだったりして見過ごされてしまいがちなので、実際歩いてチェックしないとわからない。なので今回歩いてみました。
大井→大森まで
大井町の品川郵便局から出発して大井陸橋の脇道を進み、松屋さんを右に入ります。そこから踏切を越えて、緩やかな坂を登って大井三ツ又交差点へ向かいます。この踏切は朝方、夕方は開かずの踏切となりますが古くから人々の利用が絶えません。
大井三ツ又交差点に到達するとそこには小さな祠があります。そこから池上通りを渡って、30mほどにある自転車屋さんの所を左に曲がります。そこから一方通行道路に逆行して入ります。ここが律令時代の東海道です。さらに逆行して歩いていくと緩やかに下って、クランク状の道路を進みます。そこには当然お寺があって当時の行政の中心地です。おそらくこのクランクは攻め手の侵入を阻むものであったと思われます。
そのまま進んで二叉路を左。少し大きな通りを越えて歩いていくと右手に大井山光福寺が見えてきます。ここの井戸が「大いなる井戸」→大井になったと言われています。
そのまま行くと大きなマンションに突き当たるので右折、また突き当たりを右折すると、また同祖神が現れます。ここの道の作りもあえて、複雑にして外敵の侵入を阻むために設計されたのかもしれません。
やや大きな道を渡ると、右手にお寺と鹿嶋神社が見えてきます。多分こここら辺が当時の村の境目であったと思われます。恐らく神社もそうかもしれませんが、お寺というのは旅人が一休みする場所でもあり、監視する場所でもあったのかも知れませんね。距離的にちょうど一休みしたい場所にありますからね。
そのまま真っ直ぐ進みます。すると大きなマンションに突き当たりますのでそこを右、また突き当たりますので右に進みます。この作りは先ほどと一緒ですね。すると今の池上通りに出てきます。その池上通りを左に、緩やかな上り坂を進むと大森貝塚です。更に上り坂を進むんで急激に下っていくとJR大森駅の西口です。そして下って行ったJR大森駅西口は辺りは当時沼沢地でした。その先に進むにはまた登って行かなければなりません。登って下ってまた登る、その間に沼があるのは、街道としては機能不全です。
池上通りに出た時点で立ち止まり、何か最適なルートがないものかと考えました。
すると、立ち止まったところから池上通りを渡った先に細い道が見えます。慌ててグーグルマップを眺めてみると、鹿島庚塚児童遊園裏→日枝神社裏→ジャーマン通り沿にある山王交番の間から八景天祖神社の裏の道に達しているのがわかりました。
これをうまく辿ると、JR大森西口の低地を見下ろしながら、通ることができます。まあまあの大森の難所を当時の街道はこういう回避をしていたのだと歩きながら実感しました。
次回は地図にて今回のルートを紹介します。