大井町の歴史

大井町→沼部間の律令時代の東海道を実査をしてみた。-2

地図を作ってみた

前回、大井町から大森までの律令時代の東海道を辿ってみました。

ポイントは現在大森駅西口の池上通りが山王二丁目で最下点になるのですがそこをどう評価するかなのです。実は大森は名所江戸百景 八景坂鎧掛松(えどじまんさんじゅうろっきょう はっけいざかよろいのかけまつ)に取り上げられるほど風光明媚な場所でした。↓

大森駅西口すぐの八景天祖神社境内が現場だと言われています。「笠島夜雨、鮫州晴嵐、大森暮雪、羽田帰帆、六郷夕照、大井落雁、袖浦秋月、池上晩鐘」と八勝景が眺められたようです。大きな松は平安時代後期の武将、源義家みなもとのよしいえ(1039年から1106年)が東征のおり鎧をかけたと伝わる鎧掛松とされています。初代歌川広重作

この崖の下が現在の山王二丁目交差点周辺なのですが、江戸時代当時は相当急峻な坂となっていて、雨が降るたびに坂が掘られて薬研の様になったために薬研坂とも呼ばれていたそうで、律令時代にはさらに環境は悪かったのだと考えました。坂が急だったら荷物の運搬は大変だっろうし、坂自体の状態が安定していなかったら更に使用されないだろうからです。

なので江戸時代の古地図を見つけて、大森付近で迂回ルートを探すとあるではないですか。そこを可視化して航空レーザ測量で作られた精細な DEM(Digital Elevation Model)、 「基盤地図情報5mメッシュ(標高)」から 陰影段彩図等高線を作成した地図を見つけて地図を作ってみました。

大井町から大森貝塚付近まで

なるほど、水色が標高数メートルで海岸線が今よりかなり迫っていたことがわかりますね。大井町から大森までの道のりは海を見下ろしならがら気持ちの良い道のりであったと思います。また、実際歩いてみた感覚と、この地図を拡大して眺めてみると、神社仏閣が「ちょうど一休みしたい距離」に配置してあるのがわかります。各神社仏閣には水飲み場が設てあるので給水ポイントであったり休憩所の役割を果たしていたのだと思います。

もちろん地域の監視場所としても機能していたのでしょう。

大森貝塚から山王二丁目まで

よくよく眺めると道や集落は、武蔵野台地の地形に基づいて設定されていますね。街道の設計にあたって、当たり前ですが極力昇り降りがないように、雨風風雪のないように考慮しているのがわかりますね。